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历史游记

山辺の道 ~石上神宮から海拓榴市へ~(南ルート)

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~山辺の道とは~

奈良と桜井を結ぶ古道で、日本最古の道と言われています。奈良盆地の山裾を南北に走っています。前回は奈良市を出発し天理市の石上神宮までを一日かけて歩きました。今回はその続き、石上神宮を出発して海柘榴市までを歩きます。一緒に歩いているような気持ちでお読みいただけたら嬉しいです。

主な経由地 内山永久寺→夜都伎神社→竹之内環濠集落→長岳寺→天理市トレイルセンター→崇神天皇陵→景行天皇陵→桧原神社→狭井神社→大神神社

「山辺の道 ~春日から石上神宮へ~(北ルート)」はこちら!

大和盆地と生駒、二上、葛城、金剛の山並みを見ながら歩く、なだらかな道です(南ルートと呼ぶことにします)。野菜や果実の無人販売があったり、自販機、休憩所、食事のできる店や茶店もあります。国道や鉄道が並行しているので、体調によってはリタイアできるポイントもいくつかあり、ハイキング初心者の方や子どもからシニアまで歩きやすいコースだと思います。

この日の朝、石上いそのかみ神宮は清々しさに溢れて、空に向かって高く伸びる神杉が意気揚々とさせてくれます。美しく掃き清められた境内を、神の使いとされる鶏たちが自由に歩きまわる姿には思わず見入ってしまいます。さあ出発です。

内山永久寺跡まで15分ほど歩きます。途中で石仏を見つけました。今は石仏とわかるお姿ですが、数年先には凹凸がすべて削れてなくなって、苔むしたただの石になってしまいそうな仏様。手をあわさずにはいられませんでした。

内山永久寺は永久2(1114)年に鳥羽天皇の勅願により創建され、西の日光と称されるほどの壮麗な伽藍と堂塔を持つ寺だったと伝わっています。山辺の道が寺の中央を南北に横切っていたのです。太平記には、後醍醐天皇が足利尊氏に幽閉されていた京都の花山院を脱出して吉野に向かう際も立ち寄り一時身を隠したと記されています。

ところが明治の廃仏毀釈によって廃寺となり解体され、今あるのは池と桜の木だけ。この桜の美しさを、まだ20代だった松尾芭蕉が句に残しています。

内山うちやまや 外様とざま知らずの 花ざかり

当時より更に枝を増やした桜は、芭蕉が見た時よりはるかに多くの花を咲かせるでしょう。句に詠まれた通り、地元の人など知る人ぞ知る、「外様知らずの花ざかり」は今なお永久寺跡に残っているのです。

なだらかに山を下って里に出ると、田畑の中に古墳があり、小高い墳丘の上に果実の木が植えられています。日当たりが良く果実の栽培にうってつけの様子です。

夜都伎やつぎ神社を過ぎ、西の山並みを見ながら、山の辺の田畑の中の道を15分ほど歩くと、竹之内環濠かんごう集落です。室町時代、動乱から集落を守るために、集落の周囲に濠を掘ったようです。また、馬で集落の中を一気に駆け上がってこられないようにと、集落の中の道はわずか数メートルで直角に曲がり、また数メートルで直角に曲がるという具合に作られています。

のどかな里の田畑の中に小さな丘の形をして大和おおやまと古墳群があり、風景に溶け込んでいます。萱生かよう集落の環濠跡を通り過ぎ、念仏寺の墓の中を通り抜け、たくさんのお地蔵さんが並ぶ石畳をくだると、柿本人麻呂が妻の亡骸を「引き手の山」に葬った悲しみを詠った歌碑があります。

衾道ふずまじを 引き手ひきでの山に 妹いもを置きて 山路を行けば 生けりともなし

この歌に出てくる「引き手の山」というのが東にそびえる龍王山です。萱生の集落を過ぎた東の山裾に、衾田陵ふずまだりょうと呼ばれる古墳(古墳名は西殿塚古墳)がありますが、その辺りが衾道だと想像します。

歌碑から少し行くと長岳寺です。戦国時代、龍王山に城を築いていた十市とおち氏が攻められた時、長岳寺の境内も戦場となりました。十市方の武将が血だらけになって本堂へ逃げこみ息絶えたのですが、夜な夜なその鎧姿の武将の霊が現れたそうです。血の足跡が残る本堂の縁の床板を天井に貼り替えたところ、その霊は現れなくなり成仏したということです。本堂の縁の天井には、足跡のようなものが見られます。ぜひ探してみて下さい。また、長岳寺の鐘は参拝者がつくことができます。

朝、天理の石上神宮を出発すると、昼前後に天理市トレイルセンターに着きます。龍王山城主の十市氏の歌碑が入口に立っています。無料休憩所でお茶もいただけるので、お弁当を食べるもよし、センター内のレストランを利用するもよし。軽食やお菓子も販売されていたり、観光案内所が併設されていたり、史跡紹介コーナーがあったりと充実しています。このトレイルセンターが南ルートの中間地点です。

トレイルセンターの南に崇神すじん天皇陵があります。崇神天皇は神武じんむ天皇を初代として10代天皇ですが、実在が確かである最初の天皇(紀元前97~30年頃)ではないか、という説もあります。

崇神天皇陵は少し小高くなっており、森のような陵(天皇の墓)は満々と水をたたえた濠にかこまれて、まるで島のように見えます。周濠に登ってみると、濠の周囲に植えられた松、陵の縁、それを映す水面、そこに遊ぶ水鳥の姿、そして遠くには二上山が目に映ります。シャッターチャンスを狙って写真愛好家たちが訪れる場所でもあります。

いったん崇神天皇陵を下りて住宅地を抜け、見晴らしの良い野道を行くと、景行けいこう天皇陵の濠に出ます。この濠沿いに大和三山(香久山・畝傍山・耳成山)を見渡せる絶景ポイントの案内板があります。景行天皇陵を過ぎると古代から神の山と崇められてきた三輪山がその姿を現します。

667年、天智天皇は宮を飛鳥から滋賀県の大津にうつしました。住み慣れた飛鳥から平城山を経て大津へ。都をあげての大移動です。その途中「この三輪山が奈良の山々に隠れてしまうまで、また道が後に幾つも幾つも重なっていくまで眺めていたのに雲が隠してしまう」と詠ったのが額田王(ぬかたのおおきみ)です。歌碑があります。

うま酒三輪の山 青丹よし奈良の 山の山のまにい隠るまで 道のくまいさかるまでに つばらにも見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を心なく 雲の隠さふべしや

“なつかしい三輪山よ。この山が奈良の山々の間に隠れてしまうまで、また行く道の曲がり角が幾つも幾つも後ろに積もり重なるまで、 充分に眺めていきたい山であるものを、たびたび振り返っても見たい山であるものを、無情にもあんなに雲が隠してしまっていいものだろうか。”という意味です。

額田王は大海人皇子(後の天武天皇)と結ばれていましたが、大海人皇子の兄である天智天皇(即位前、中大兄皇子)に見そめられ、天智天皇に愛され仕えました。三輪山と離れていく名残惜しさに、大海人皇子との楽しい思い出がつまった飛鳥を離れ、天智天皇と大津へ向かう切なさを重ねた歌です。

みかん畑や果樹園が続く道は見晴らしの良い道や、人一人分の道幅しかない坂道、車道との交差地点、下ったり上ったりと変化に富んだ道です。そうして進んでいると、檜原ひばら神社が見えてきます。

檜原神社は大神神社の摂社なので、鳥居が大神神社と同じく二本の木の柱にしめ縄が渡してあります。これを「注連縄」というそうです。また、拝殿や本殿がなく、拝所には三ツ鳥居という三つの鳥居が横一連につながった独特のものがあります。これも大神神社と同じなのですが、大神神社では拝観に申し込みが必要です(神社行事などで拝観できない日もあるので事前申し込み推奨)。

神社の西の鳥居の正面に二上山が見えます。春分、秋分の日には三輪山から朝日が昇り二上山のちょうど真ん中(雄岳と雌岳の間)に夕日が沈むそうで、この事は古代の人にとって神の業以外の何ものでもなく、神聖な「時」だったに違いありません。現代もこの「時」を写そうと、檜原神社の鳥居越しに二上山の真ん中に沈む夕日にシャッターを切る人たちが集まるそうです。

その鳥居から西へ5分ほど下ったところに井寺池があり、その池のほとりに天智天皇と倭建命(ヤマトタケル)が詠んだ歌のそれぞれの歌碑があります。

香具山は 畝傍を惜しと 耳成と 相争ひき神代より かくにあるらし 古もしかにあれこそうつせみも妻を争ふらしき (天智天皇、揮毫:東山魁夷)

大和は 国のまほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和し うるわし (倭建命、揮毫:川端康成)

ヤマトタケルの歌は、父・景行天皇の命令による東国遠征の帰途に故郷の大和を偲んで歌ったものです。結局大和までは帰ることは叶わず亡くなった彼の瞼に焼きついた景色を、歌とともに味わうことができます。

また、桧原神社は「元伊勢」(天照大御神が伊勢へたどり着く前、一時的に鎮座した場所のこと)です。

太陽神の女神、皇室の祖先としても崇められている天照大神(あまてらすおおかみ)は、10代崇神天皇の代までは天皇が住まう宮中に祀られていました。しかし崇神天皇の即位後、疫病が流行して人口の半数が失われ、天皇は祭祀で疫病を治めようと考えました。また天照大神の神力の激しさにも堪えかねられて宮中とは別の場所で祀る事を決断されたのです。

崇神天皇からこれを託された娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が初めにその場所を定めた所が桧原神社でした。その後、崇神天皇の孫にあたる倭姫命(やまとひめのみこと)が祀るにふさわしい地を求めて大和を出発。全国20数カ所を転々とし、最終的に伊勢に定まったということです。

大神神社とも伊勢神宮とも比べものにならない小さな神社ですが、玉砂利には美しく砂紋が引かれ、質素な鳥居の姿、俗化されていない凛とした気が流れている神社です。

檜原神社から大神神社までは木立の中を歩きます。この間に三輪神社の摂社、末社が点在しています。
摂社の一つである狭井神社では、三輪山から湧き出る「御神水」を飲む事ができます。ペットボトルや水筒に入れて持ち帰る人もいます。御神水の徳を得ようと書道や絵画に使う事もあるようです。

また、この境内から三輪山へ登ることができます。三輪山は三輪神社の御神体ですから、あくまでも目的は参拝。登るにあたっては注意事項がたくさん有ります。杖が用意されているほど険しい道となっており、登頂には時間も要すようなので、山辺の道ハイクとは別日に訪れるほうがいいでしょう。

挟井神社を出てすぐ、久延彦神社の手前にある展望台(大美和の杜)から大和三山、三輪山二上山、国道沿いにある三輪神社の大鳥居が見えます。この鳥居は昭和天皇の親拝と在位60年を祝って建立されたものです。奈良盆地や大和三山を見渡せる場所はここが最後となります。

大神神社の拝殿には大きな杉玉が吊るされています。直径1.5m、重さは200kgもあるそうです。麹造りから貯蔵まで、酒造りには欠かせない杉。その杉が多く自生している三輪山は古来から「三諸山みむろやま」とも呼ばれ、「うま酒みむろの山」と称されて酒の神様としても信仰されています。毎年11月14日に酒祭りが催され全国から蔵元杜氏が集まるのですが、その前日に杉玉は新しい青々したものに替えられます。この凡習が江戸時代から全国の酒蔵に広がり、今では様々な場所で杉玉が見られるようになったそうです。万葉集では「三輪」の枕詞に「うま酒」が多く使われています。大津へ向かう途中に額田王が詠んだ歌にも使われていました。

拝殿の前や神杉の前などに、参拝者がお供えしたお酒の他に”卵”も供えられています。これは御神体である三輪山には主がいて、その主(大物主大神/おおものぬしのおおみかみ)が蛇の姿をした神様だといわれているためです。蛇の好物の卵を供え、家内安全、五穀豊穣を祈るのだそうです。三輪山=巳で、三輪山の主ではありますが、「ミィさん」と親しまれて呼ばれています。

大神神社の杜を抜け金屋の石仏を経ると静かな住宅地の一角に「海拓榴市つばいち」の案内板がありました。その先に初瀬川(大和川)、そして河川敷の公園に「佛教伝来之地」の碑がありました。

かつてこの辺りは市が賑わい、歌垣に男女が集い、外国の船が着き、活気にあふれた場所でした。平安時代には貴族の間で長谷寺詣りが流行し、宿場町として賑わった事もあったそうで、枕草子や源氏物語にも「海拓榴市」が登場するようです。

ところが今は……往時を偲ぶものが何もない静かな住宅地。川は浅くなって草が茂り、とても船など通れそうにありません。けれども2000年以上の時が流れればそれは当然の事なのです。

今回、山の辺の道を歩いて気付いたのは、2000年の時を経ても変わっていないものや残っているものがあるという事。それに改めて深い感動をおぼえました。

「道」もその一つ。

遠い遠い未来に山辺の道が残っていたとしたら、そこを歩く人達に何を見せ、何を感じさせてくれるのでしょうか。

よしのーと編集部

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