古代、奈良盆地は大きな湖だったそうです。大阪平野も日本海と繋がる海で、両府県の間にそびえる生駒山、二上山、葛城山、金剛山は、海と湖の中にさながら浮かんで見えたことでしょう。
東に連なる青々とした山に垣根のように囲まれ、西に広大な湖を臨む日本最古の道「山辺の道」はまさに「国のまほろば」だったのではないでしょうか。
神話と歴史が混沌としている紀元前600年頃、初代天皇といわれる神武天皇が、宮崎の日向から瀬戸内海を通り、和歌山の熊野に上陸しました。今を生きる私達は、京都や大阪から奈良へのルートを描きがちですが、神武天皇は「やたがらす」という3本足の大きな鳥の道案内と、様々な邪からその身を救ったとされる剣の力で、熊野から大和に入ったとされています。
そして、その剣を祭神とするのが、現在の天理市布溜にある石上(いそのかみ)神宮です。石上神宮の近くを布留川が流れており、この下流域(現在の天理大学あたり)には縄文時代から続く大きな集落がありました。一方、桜井市三輪の初瀬川(大和川)流域にも集落があり、三輪山を神が鎮まる山として心の寄りどころとしていました。
三輪山をご神体とする三輪神社と、神武天皇を救ったとされる剣を祭神とする石上神宮との往来が「山辺の道」の始まりでした。石上神宮は大和王権の武器庫としての役割もあったそうなので、三輪山に祈り、石上で武装する王族や兵士達の道だったのかもしれません。
ところで、初瀬川岸に海拓榴市という場所がありますが、ここは大阪(河内)から大和川を遡ってくる舟の終着地でした。この時代の主な交通手段は舟。つまり水路が人や物、情報を運んでいました。
初瀬川は大阪(河内)を経て日本海、朝鮮、中国と繋がっていたので、海拓榴市は外国との文化の交流地でもありました。やがてこの地は市で賑わうようになり、様々な物産が集まり物々交換が行われました。道に街ができたのです。
若い男女が集まり、互いに歌を詠みかわし、舞い、求婚する「歌垣」という凡習も生まれました。この市や歌垣には遠方からも人が集まり、道は物が運ばれたり、愛しい人と出会ったり待ちわびたりする場所となりました。そして更に時代が移るにつれ、三輪と石上を結ぶ小径は、飛鳥から奈良へ通う幹線道路となりました。
海拓榴市には仏教が伝わり、遣隋使・小野妹子が隋からの使者を伴って帰国したのもこの地でした。やがて藤原京を経て、平城京への遷都が行われると、山辺の道沿いにも東大寺を始め白毫寺、新薬師寺、弘仁寺、長岳寺、正暦寺といった寺が創建されました。
2000年を超える時間は地形さえ変え、湖は街となりました。また、古墳は果樹園や公園となり市の跡は住宅地となり、大寺院跡も形を失いました。歩く人の姿も目的も変わりました。けれども、その場所には道は残りました。数知れぬ人々の足音が聴こえてくる「山辺の道」。あなたなら、何に思いを馳せて歩きますか?
大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和し 美し
(大和は国の最も素晴らしいところ。どこまでも続く青垣。山に籠っている大和はうるわしい)
歌人:倭建命(ヤマトタケル)