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歴史のお話

奈良の古道「山辺の道」にまつわる歴史物語

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奈良盆地の東南・三輪山の麓(桜井市)から東北部の春日山の麓(奈良市)へと通じている日本最古の古道「山辺やまのべの道」には、『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』ゆかりの地名や伝説が数々残されています。

その中から、特に有名な2つのお話をご紹介したいと思います。

 

影媛 悲劇の恋愛物語

西暦500年ごろのお話です。第25代 武烈天皇がまだ皇太子だった時、大臣の職にあった平群真鳥(へぐりのまとり)は国政を思うがままに動かし、天皇家に対して数々の無礼を働いていました。
例えば、「皇太子のための宮殿を造る」と言っておいて完成したその宮殿に自分が住んだり、皇太子が馬を必要としても適当な返事をするばかりで全く実行しなかったりなど、皇太子と父の仁賢天皇の言うことを全く聞かず大変困らせていました。

大臣であった真鳥(まとり)は、実はその当時、いずれ自分が日本の王になろうと野望を抱いていたのです。

ある日、皇太子は豪族であった物部氏の娘の「影媛(かげひめ)」に求愛し、結婚を望んだことから、影媛のもとに使者を出して求婚のアプローチを行いました。ところが影媛は、なんと真鳥の息子である鮪(しび)と恋に落ちており、相思相愛の仲だったのです。

影媛は、天皇からの求愛をその場で断る事ができなかったことから、海拓榴市つばいち(現・奈良県桜井市付近)の歌垣うたがき(男女が集まって、互いに和歌を詠み合うことによって求愛する行事)で皇太子と再び会う約束をしました。市は人でごった返しており、若い男女による歌垣が催されていました。そこで皇太子は影媛の袖をつかみ、自分について来るように誘います。

琴を奏でると、神が影となって近づくという。その“影”という名の影媛は、宝石に例えるなら、あわびの真珠だ。私はその真珠、影媛が欲しいのだ
(琴頭に 来居る影媛 玉ならば 我が欲る玉の 鮑白玉)

このストレートな求愛に影媛はつれなく応じます。

皇子の帯が結ばれていますが、皇子と私は心結ばれておりません。鮪(しび)以外の人を想ってはおりません
(大王の 御帯の倭文服 結び垂れ 誰やし人も 相思はなくに)

そこへ鮪(しび)がやって来て、二人の間に割って入ったので、皇太子は影媛のそでを離し、皇太子と鮪との間で歌の応酬となりました。この歌のやりとりから、鮪と影媛がすでにただならぬ関係である事に皇太子は気付くのですが、さらに鮪は以下の和歌を詠んで挑発します。

その程度の気持ちでは、私が大切に守っている影媛を想う気持ちに踏み込む事はできないぞ
(大王の 心を緩み 鮪の臣の 八重の紫垣 入り立たずあり)

皇太子は鮪の父が行った数々の無礼も思い出し、更に激怒しました。

私は大きな刀を腰に下げているが、ここで抜く事はしない。
だが、影媛はいずれ私のものだと覚えておけ
(大太刀を 垂れ佩き立ちて 抜かずとも 末は足しても 遇はむとぞ思ふ)

まるで捨て台詞のような歌を残してその場を離れた皇太子は、その夜、家臣・大伴(おおとも)氏の家に行って兵士を集める相談をしました。相手は我が世の春とばかりに政治を動かしている平群真鳥(へぐりのまとり)の息子です。大伴氏はなんと数千の兵士を率いて、鮪(しび)を平城山に追いつめていきました。

それを知った影媛は、鮪を安じて、現・奈良県桜井市から天理市へと至る山辺の道を北へ北へと追いかけます。

布留を過ぎ、高橋を過ぎ、大宅(奈良市白毫寺あたり)を過ぎ、春日を過ぎ、佐保を過ぎ、ご飯と水を美しいお椀に盛って、涙に濡れながらも行かねばならないとは、なんと憐れな私なのでしょうか
(石上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 
物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ
嬬籠る 小左保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り
玉椀に 水さへ盛り 泣き沽ち行くも 影媛あはれ)

平城山ならやままでの長い道のりを追いかけた影媛が見たものは、愛おしい人の処刑の一部始終だったといいます。深い悲しみと憤りの中、鮪(しび)の屍を土に埋めて、影媛は一人歩きながら帰路に就きます。

平城山ならやまの谷間の岸辺で土の中で濡れて眠る、まだ若い鮪の姿。猪よ、どうか探し出さないでそっとしておいて下さい
(あをによし 乃楽の狭間に 鹿じもの 水漬く辺隠り 水灌ぐ 鮪の若子を 漁り出な 猪の子)

この影媛をめぐる事件は、それまで絶大な権勢を誇っていた平群一族が、武烈天皇と大伴氏に滅ぼされるきっかけとなったといわれています。

※和歌出典:日本書記より

 

狂心の渠(たぶれごころのみぞ)

飛鳥時代、斉明天皇は奈良県の明日香と吉野と多武峰(とうのみね)に、それぞれ3つの宮を造りました。その中でも、両槻宮ふたつきのみやと名付けられた多武峰の宮にはずいぶん力を入れていたと言います。

多武峰は明日香の東にそびえる標高600mの山で、そこにある2本のケヤキの大木は神が宿る木と考えられていました。この木の近くに宮を造り、多武峰の周りを冠のように石垣で囲もうとしたのです。

その石垣の石は、山辺の道に面する石上山(いそのかみやま)から採石された砂岩でした。そしてこの石を明日香に運ぶため、のべ3万人を使って運河を造ったのです。石上山から香久山の西まで、その距離約13km。200艘の船が石を積んで通ったとのことですから、かなりの幅と深さがある運河だったのでしょう。水を引いてくるのも大変な事だったと思われます。

更に、運河で運んだ石を多武峰の周りに運び、石垣を積み上げるのに7万人を動員したといわれています。この工事は人々から「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と呼ばれ、「無駄に人を使い、木材を浪費し、山頂を潰して石の山丘を造っても、造った端から壊れるだろう」と非難されたそうです。

山辺の道にある石上山(現在の豊田山)は、今となっては3万人もの人々が石を担いだ人々が行き来した跡はなく、ただ静かにたたずんでいます。

牧

大阪で生まれ育った私が転勤で奈良へ来て35年。うるわし奈良をまだまだ廻りきれません。

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