奈良と桜井を結ぶ古道で、日本最古の道と言われています。奈良盆地の山裾を南北に走っています。今回は、奈良市を出発して天理市にある石上神宮までを、寺社や古墳を巡りながら歩きました。一緒に歩いているような気持ちでお読みいただけたら嬉しいです。
主な経由地 白毫寺→圓照寺→正暦寺→石上大塚古墳
「山辺の道 ~石上神宮から海拓榴市へ~(南ルート)」はこちら!
今回のコース(北ルートと呼ぶことにします)は上り下りが多く、鬱蒼とした山道や竹林の中を歩きます。ハイカーも少なく途中に売店や自動販売機などもほぼありません。一人歩きが心もとない方は、グループで歩かれることをお勧めします。
奈良市高畑町、奈良公園の賑わいと遠い落ち着いた趣のある小道を出発します。左手に鑑真の住まいだった不空院、右手に聖武天皇の眼病平癒のために光明皇后が建立した新薬師寺があります。
高円の野辺を進むと住宅地に入り、高円山西麓の高台に白毫寺が見えてきます。
白毫寺の参道は長い石段が続きます。山門をくぐると両側に古い土塀。土がはがれ落ち瓦がゆがんでいるのが古刹感たっぷりです。石段を登りきり振り向くと、参道の石段、土塀、山門、その向こうの奈良の市街地が一望でき、まるで一枚の絵のように目に映ります。境内には石仏と椿の木がたくさんありますが、その中でも不動明王の石仏は、数百年の風雨にさらされてその表情を見ることはできません。そのような状態で、なおそこに立つ仏様のお姿は、折れて割れてそれでも新しい枝葉をつけている後ろの大木と相まって、眺めていると感銘を受けます。また白毫寺は椿が有名で、4月の散り椿のころ、石仏が椿と一番マッチするよい時期となります。
“円照寺3.9km”(円照寺の漢字表記は正しくは「圓照寺」)の看板を辿り、圓照寺まで山道、野道を歩きます。池の堤を守るための猪よけの柵を開け、竹林を通り抜け、いったん里に出て再び竹林や雑木林を通ります。
圓照寺は拝観できません。それ故に世俗と一線を引いた静寂に包まれています。ここは門跡寺院と言って、皇族貴族が住職を務める寺院で、尼寺です。また山村御流という生け花の家元でもあります。地元の方は圓照寺の事を山村御殿と呼び、奈良に皇族がおみえになった時にお忍びでお出かけされる姿を温かく見守っていたそうです。
その後は圓照寺から車道へ出て弘仁寺へ行くコースと、正暦寺を経由して弘仁寺へ向かうコースがあります。正暦寺へは、どんどん山を登って行きます。
正暦寺は清酒発祥の地といわれています。現在は深山にひっそりと建つ隠れ寺のようですが、その昔は86坊もの塔が立ち並ぶ大寺院だったそう。荘園で作られた米で、僧侶がお供えのための酒を自家製造したのが清酒造りの始まりと言われ、現在も毎年1月に酒母の仕込みを行い、県内の蔵元がそれを用いて清酒を醸造しています。
福寿院という客殿から見える庭園は山の木々が借景になっていて美しく、菩提仙川の渓流の音が聞こえ心が落ち着きます。春の桜や秋の紅葉がイチ押しかと思いきや、お寺の方は青もみじの美しさを薦めて下さいました。
正暦寺から弘仁寺へは車も通れる歩きやすい道を高樋の里へと下っていきます。
石上大塚古墳の先に「狂心の渠」の案内板があります。「狂心の渠」は斉明女帝が造った壮大な運河の跡。山から切り出された石を運ぶために3万人の人を使って運河を造ったとは……。
再び大きな道を横切り天理教の建物の裏を通って野道を行くと、布留川の上にかかる「布留の高橋」に辿り着きます。
橋を渡った所に、高橋を詩った万葉歌が書かれています。長い年月をかけて川の流れがゆるやかになり、谷は埋って浅くなり、狭くなり、岸に草木が生い茂り……。コンクリートの橋が追い打ちをかけて歌の情緒を邪魔しますが、その昔は2つの滝が落ちる深い谷を渡す木の橋で、石上から北へと向う要所だったのではないかと言われています。
ちなみに、“高橋”姓の由来はこの橋との説があります。
高橋を渡ると間もなく石上神宮の境内です。9:30に春日を出発して石上神宮に17:30着。
苔むした杉の大木や常緑の木々に覆われた神宮は、日暮れが近づき、楼門の灯篭や提灯にも灯がともり幽玄の空気が漂う中にありました。
神武天皇を邪から救った剣、スサノオノミコトが八岐大蛇を倒した剣、物部氏の遠祖であるニギハヤヒのミコトが天から降りてくる時に授けられたという「十種の宝」(これをゆらゆらと振れば死人も生き返るとか)、それぞれの霊力が祭神として祀られています。
また公開されておらず見る事はできませんが、神功皇后が百済から献上された剣(七支刀)も御神体同様に祀られています。ヤマト王権時代の豪族物部氏の氏神でもあり、武器庫としての役割を持ち「山辺の道」の始まりとなった石上神宮。
その神宮の杜を出る頃には東の山並みの上に月が高く昇っていました。