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極め付きのアクティブな祭 廣瀬大社の「砂かけ祭」

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奈良には「奇祭」と呼ばれる祭りがたくさんあります。その多くは「御田植祭」や「おんだ祭」と呼ばれる豊作を祈る農業関係の祭りです。これらは田植えの準備が始まる前の農閑期に行われることが多く、2月初め頃にはあちこちで執り行われます。

奈良の奇祭の中でも極め付けの「参加型祭り」と呼べるのが、奈良県北葛城郡河合町にある廣瀬大社の「砂かけ祭り」ではないでしょうか。地元の人たちだけでなく、お参りに来た人がみんな「砂かけ」に参加して大騒ぎになる、なんともアクティブな祭りです。

 

大和川合流地点に位置する廣瀬大社

自転車で土手沿いを行くと、安堵町から法隆寺に向かう途中、土手から見えるのが廣瀬大社。農地の中に森が広がっていて、いかにも由緒がありそうです。

大和川沿いに広がる広瀬大社の森

廣瀬大社の創建は崇神天皇の時代といわれていますが、初めて記録に出てくるのは今より1300年以上前の天武天皇の治世4年。神社の長い参道は森に包まれていて、おごそかな雰囲気。普段は参拝者も少なく、静かな場所です。

普段はひっそりとした広瀬大社の境内

廣瀬大社とともに語られるのが、生駒郡三郷町にある龍田大社。龍田大社の風の神と廣瀬大社の水の神は、一対の神として古くから祀られてきました。

廣瀬大社と合わせて祀られる龍田大社

龍田神社は、「亀の瀬」といわれる大阪と奈良の境界近くにあります。ここは、生駒山地と金剛山地に挟まれ、奈良盆地から大阪湾へと流れる、唯一の河川の出口。今でも津波がここを超えると大和盆地が湖になるという、重大な地点です。

そして、この広瀬神社が建っているのは奈良盆地のすべての河川が大和川へと合流する地点。つまり風水の神をまつる両神社は、台風や洪水、日照りと戦う前線基地ともいえる地に建っているのです。

大和川は、京の都への運輸・交通の大動脈でもあります。このロケーションを知ると、どうしてこの神社が当時の為政者にとって大切だったのかがわかります。

大和川の河川の合流地点と龍田大社、廣瀬神社の立地関係

「壬申の乱」で天下を治めることに成功した天武天皇は、まだ国として安定していない日本が立派な国家であることを国内外に示さなければなりませんでした。

古代においては、自然災害をコントロールして豊かな実りを約束することこそ、統治者の重要な役割でした。

『日本書紀』には、天武天皇が即位して4年目から数年にわたり干ばつが続いたことが記されています。天武天皇はこの期間(675年)に、龍田神社とともに広瀬神社を祀りました。この干ばつを乗り越えることで、彼は天皇としての力を示そうとしたのではないでしょうか。

それ以来、毎年、田植えと刈り入れの前に行われる国家行事「大忌祭」が定着していきます。天皇自らも両神社に行幸しています。その「大忌祭」の中で行われていたのが、「砂かけ祭り」だといわれています。

 

豊作を願って行う激しい「砂かけ」

「砂かけ祭り」は毎年2月11日の祭日に行われます。

当日、神社に到着するとすでに大勢の人が詰めかけていました。コロナが騒がれ始めていましたが、まだ奈良ではそれほどの感染者が出ていなかった頃です。交通の便が悪いため、この日のためにシャトルバスも出て、近くの工場の敷地が駐車場となり、普段と比べて驚くほどのにぎわいです。参道には屋台や出店が並んでおり、この日だけの限定商品「砂かけ餅」も販売されています。

拝殿横に作られた舞台で太鼓の奉納が行われていました。ひょっとこやおかめの踊りも登場し、お祭り気分が盛り上がります。

このお祭りは午前と午後の2部構成。午前10時30分からの「殿上の儀」では、祝詞の奏上のあと、拝殿を田圃に見立てて苗代作りから田植えまでの所作を行います。

午後2時から行われる「庭上の儀」では、舞台は拝殿の前の広場に移ります。青竹が四隅に立てられ、しめ縄で仕切られた田んぼに見立てられた場所には、「砂かけ」のための砂が敷き詰められています。

「砂かけ」が始まる前に、まず砂地を平らにならします。その周りを取り囲むのは、レインコートやブーツ、帽子で武装した観客たち。 参拝者の一眼レフカメラは、すっぽりビニールで包まれています。なんでもレンズの中にまで砂が入ってくるそうで、みんな防御体勢はバッチリです。

田人の登場が登場しました。苗代作りの所作を行ったあと、木の板で作られた平らなスコップで土をすくったかと思うと……

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高く高く、砂を周囲に振り撒いていきます。舞い落ちる砂から逃げようとする人たちできゃあきゃあと声が上がり、大騒ぎになります。

そのうちに子どもたちは大はしゃぎして、砂をかけ返します。田人はしめ縄の外へと境内中容赦無く砂を撒き散らしながら、移動していきます。その激しさは、離れた舞台の上から見ていても鞄に砂が入り込むほど!

砂かけは1回5分ほどで太鼓が鳴りいったん終了しますが、すきくわが2回ずつ、からすき馬鍬まぐわが3回ずつ、それぞれ苗代作りや手作りの所作が終わった後で行われるので、観客は10回も砂をかけられることになります。

鋤、鍬の動作が行われた後、黒い木でできた牛の面を被った牛役が登場し、犂、馬鍬の所作が田人と牛役の2人で行われます。今度は砂かけ役が2人になったので、砂かけはいっそう激しくなります。境内中、子どもたちが追っかけて砂をかけ合っています。

もちろん、ただ楽しむために砂かけをしているのではありません。砂は雨を表し、お互いに砂を掛け合うのは、掛け合いが盛んであるほど雨に恵まれ、秋に豊かな実りが訪れるといわれているからです。

多すぎても少なすぎても、大変な被害となる雨。田植え前の段階ですでに始まっている雨との戦いの激しさを表しているのでしょう。

 

早乙女による田植えとチマキまき

砂かけが終わると今度は早乙女が2人現れ、苗に見立てた松の葉を砂の上に置いていき、田植えの所作を行います。

儀式が終わると青竹、しめ縄が取り払われ、櫓が立てられました。最後に参拝者に松苗が投げられます。これは田んぼの取り入れ口にさしておくと、害虫除けや病害からのお守りになり、家の戸口にさすと厄除けになるそうです。

みんな夢中になってゲットしています。直にキャッチするのは難しいのですが、たくさん投げられるので落下するものもあり、私は落ちたものを拾って持ち帰ることができました。

それにしても、田植え前の段階の苗代作りや田作りがこんなに手間がかかって大変だったなんて。そして刈入れまでは、風水害、日照り、虫害……と戦いの連続。

農業を知らない私たちには、このようにお祭りの儀式として残されていなければ、それを実感する機会はほとんどないと言っていいでしょう。祖先の人々の営みがここでもしっかり伝えられていました。

今も形を少しずつ変えながら、伝えられ続ける砂かけ祭り。私たちがそこから汲み取れる意味はとてもたくさんあるように思われました。

さらり

さらり

京都生まれ、あちこち育ち。転々と職と住所を変え、行き当たりばったり人生驀進中。奈良在住歴はトータル16年と最長。現在、大学非常勤講師。

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