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歴史のお話

父の思いを成し遂げる!護良親王、吉野城の戦い

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鎌倉幕府の討幕を目指した後醍醐天皇には、護良親王という皇子がいました。
後醍醐天皇の挙兵時から父に付き従い、父が鎌倉幕府に捕らえられても、なお戦い続けた皇子でした。

 
時は1332年、吉野城の戦い。
護良親王は3千余騎を率いて吉野山で挙兵します。
一方、鎌倉幕府の討幕を阻止しようと、幕府軍6万は龍門山地を越えて吉野を目指します。
2月18日、幕府軍は吉野川を越えて吉野山へ進軍しました。
戦いの火蓋はきって落とされたのです。

迫り来る幕府軍を相手に、親王軍は吉野山に城を築いて陣を作り、幕府軍の攻撃を見事に封じて数の不利をくつがえします。
戦いは7昼夜におよび、兵士の血は草葉を染め、屍は道ばたに積み重なるありさまでした。
しかし、親王軍は幕府軍に吉野山の土を踏ませなかったのです。

そんな中、吉野山の地形に詳しい者が、幕府軍に付いたことで戦局は一変します。
二手に分かれた幕府軍に、親王軍は前後から攻められ、とうとう前線が崩壊します。
吉野山の内部にまで幕府軍が入り込み、親王軍はもはや風前の灯火でした。
親王の陣地は幕府軍に囲まれ、徐々にその包囲の輪は狭まってきます。
刀で斬り合う音が、風切り音が、怒号が、悲鳴が、嗚咽が、血臭が、死が、一歩また一歩と近づいてくるかのようでした。

その様子を見据えつつ、親王は龍頭の兜を被り、3尺5寸の長刀を強く握り締めました。
そして、たった20名の味方とともに、死の輪の中へと飛び込んでいったのでした。
親王の決死の勢いにひるんだ幕府軍は、わずかばかりの後退を与儀なくされます。
少しとは言え、死の包囲網を蹴散らした親王。
しかし、その体には7本の矢が刺さり、頬と腕からは血があふれ続けていました。
死線をかいくぐって掴んだ束の間の、しかし貴重な時間。
その時間を使って親王は、大幕の内に戻っていきます。

戦場からは布一枚隔てただけの、大幕の内側。
大将の護良親王は、敷皮の上にドッカと座り、部下に届けさせた酒を大盃にそそいで、ぐびりと仰ぎました。
親王の前では、一人の兵士が剣舞を披露しています。
「刀剣を稲妻のように振るって、大石を雨のごとく投げて戦いましたが、
 …この戦、修羅はとうとう天帝に勝てませんでしたなぁ。」
4尺3寸の太刀を軽々と振り回しながら、そう兵士はガハハと笑いました。
そんな空気のゆるみに、親王もふと口元がゆるむのを感じるのでした。

「さて、これが最後か。」

親王が、いざ戦場へ向かおうと、立ち上がりかけた時でした。
部下の一人である、村上義光が身代わりを申し出て、親王に逃げるよう進言しました。

「この城から幕府軍を撤退させることは、もはや不可能かと。私が身代わりになります。
 敵の包囲が十分でないうちに、敵を突破して退去なさってください。」

親王の反論も意に介さず、義光は奪い取るように親王から鎧を脱がせたのでした。

親王の鎧をまとった義光は、敵軍と本陣を隔てる二の木戸の櫓(やぐら)にのぼります。
二の木戸の向こう側には、敵が山津波のように押し寄せていました。
その数にひるむことなく、義光はギラリと太刀を抜き放ち、朗々と告げます。

「我こそは95代目の天子、後醍醐天皇の皇子護良である。」

村上義光の姿を見付け、ざわつきだす敵軍たち。
そんな幕府軍を鋭く睨みつけ、切り伏せるかのように言葉を紡ぐ義光。
しかし、義光は、その視界の端に、親王が逃げ延びていく姿を確かにとらえていました。

― 親王様、どうかご無事で。
― 私の息子よ、親王様のお護りをたのんだぞ。

心の中でそう叫び、十分に時間をかせいだとみた義光は、

「汝らが武運つきて自害するときの手本とせよ。」

自らの腹をかっ斬り、内臓を投げつけると、刀を口に咥えてドウと倒れ伏したのであった。
背後で湧き上がる声に、逃げる途中の親王は義光の死を知ります。
「すまない」と小さくつぶやいて、親王は先導する義光の息子 義隆の背を見つめます。

「親王様、先に行っててもらって、よろしいですか。」

村上義隆から、そう声がかかりました。
耳を澄ますと、櫓(やぐら)付近の声にまぎれて、こちらに近づいてくる馬の足音がかすかに聞こえます。

「少しばかり、野暮用ができました。」

「死ぬなよ」と声を残し去っていく親王に背を向け、
義隆は1時間もの間、500騎ほどの軍勢を一人で防いで見せたのでした。

 
- それから700年の時が経った現在。

今では、義光が身代わりとなった二の木戸も、親王が弾幕を貼った陣地も、ただ、跡地に風がふき抜けるばかりです。

この地を訪れた芭蕉の弟子は、こう歌に詠みました。

「歌書よりも 軍書に悲し 吉野山」

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