むかしむかし。
吉野には「吉野宮」という離宮があったそうです。ですが、古い書物には、この離宮が吉野のどこに存在したか書かれていませんでした…。そのため、この「吉野宮」がどこにあったか?について、昭和のはじめに、研究雑誌や新聞等で様々な論争が起こったのでした。以下に、その当時の様子を見ていきたいと思います。
Aさん曰く:
「最近、何人かの人が、『東吉野村の丹生川上神社(中社)』の近くに吉野宮があったと主張している。しかし、いずれも強引なこじつけで、彼らの主張する説には一つも納得できるものがない。私は、彼らが大いに反省して、根本的な研究調査されることを希望する。」
Bさん曰く:
「最近、吉野宮が「吉野町の宮滝にあった」という説を主張する人が増えている。私は、その説についての矛盾を指摘しているが、誰一人として、吉野宮がそこに存在した根拠を説明できていない。『川の景色がきれいだから宮滝に吉野宮があった』などと曲解する人達には、反省を希望する。」
このような感じで…
昭和のはじめに、「吉野宮がどこに存在したか」論争が、何度も何度も繰り返されました。
古い資料によると、吉野宮が存在していたのは飛鳥時代から奈良時代にかけてだそうです。その当時、吉野宮には何人もの天皇がお越しになっていたようで、『万葉集』には歌がたくさん詠まれています。また、“壬申の乱”という教科書に出てくるような大事件の始まりにもなった場所でした。そのため、郷土史家の間では、吉野宮の場所を解き明かすことは、それはそれは凄いことだったのです。
そんな背景もあり、昭和のはじめに起こった「吉野宮がどこ存在したか」を巡る大論争は、激論に激論を重ねて、大変な事態になっていきました。例えば、奈良県庁主催の会議では、意見の食い違う両者が顔を合わせ大激論が行われました。
そこから両者はよりヒートアップして、一方は、自腹での発掘調査を開始し、もう一方は、周辺の地名をくまなく調べ始めました。
その後、研究雑誌において、「吉野宮の存在した場所」に関する主張をお互いが発表し合います。なお、お互いの主張の中では、相手を名指しで批判するという徹底ぶりでした。
はじまりは、いわゆる郷土史家同士の言い争いでしたが、事態が大きくなるにつれて、大学教授等の権威が、双方の主張のバックに付いていきます。そのことが、事態をさらにヒートアップさせてしまい、事態はどんどん収拾が付かない方向に進んでいきます。
こういう時、不思議なことに、事態を加速させることばかりが起こるのです。宮滝で畑を耕していた人が弥生土器を掘り出してしまいました。
そんな報告が次から次へと入ってきたため、奈良県庁では、「宮滝に遺跡があるのは確実では!?」となって、奈良県内でもかなり早い時期から宮滝遺跡の学術的な発掘調査が行われることになったのです。
「吉野宮は〇〇にあった!」ということで、研究者たちが激論を繰り広げている渦中で、実際に発掘調査を行っていた担当者の心中は、どのようなものだったでしょうか。揉め事の渦中にあるため、さぞかしプレッシャーの掛かる仕事だったであろうと想像できます。
なお、奈良県庁による宮滝遺跡の発掘調査には、調査開始から終了まで8年の歳月を要しました。それにも関わらず「この場所に吉野宮があった」という証拠は見つかりませんでした。当時の考古学の研究レベルでは、十分な情報が得られなかったのです。
研究雑誌上で議論が続く中、宮滝遺跡の発掘調査は淡々と行われ、2020年までに70回を数えるまでになりました。新たな研究や調査の成果が蓄積されることで、判明した事実が徐々に増えてきており、ここ最近では、ようやく「吉野宮は宮滝にあった」という結論で落ち着きそうな状態にまでなっています。
飛鳥時代の宮滝には、当時の飛鳥の都などでしか造られなかったような庭園の池が造られていたことが分かってきました。奈良時代になると、平城宮の大極殿と同じ本数の柱を使った大きな建物が建っており、その建物には、平城宮の内裏(天皇のプライベート空間)と同じ文様の瓦が使われていたこと等も分かってきました。
論争はようやく一段落といったところでしょうか。
それにしても、昭和のはじめの郷土史家たちは、情熱を持った人たちだったのですね。自分達の研究によって行政を動かし、令和の時代に入っても、その影響を与え続けているのですから。
ちなみに、「吉野宮」が、吉野町宮滝にあったことがほぼ判明した今でも、その推定地は「吉野町宮滝」を含め5か所とされています。
皆さんは、どこにあったと思いますか?
郷土史家になったつもりで、一言モノ申してみてはいかがでしょうか。