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歴史のお話

『太平記』のこぼれ話。南朝の悲しい愛の物語

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愛とは何故、かくも人の心をひきつけるのでしょうか。

長い歴史の中で、多くの文学において人は愛を主題に物語を紡いできました。あたたかな愛、引き裂かれた愛、やさしい愛、悲しい愛。愛にもさまざまな形がありますが、とりわけ、悲しい恋とは、深く心を突き刺す思いがするものです。

さて、やはり昔からたくさんの方々が訪れた場所だけあって、この吉野にも、そうした物語がいくつか伝わっています。本日みなさまにご紹介するのは、そのような愛の物語の一つ。今より700年程前に、吉野町の竜門という地域で起こった、
弁内侍(べんのないし)という女性の物語です。

――吉野の地で、南朝を開かれた後醍醐天皇が、

「たとえ、私の身体が吉野の苔に埋もれようとも、私の魂は常に京都の空を望み続けている。

私の命に逆らって仁義を軽んじるのであれば、(北朝の)天皇であっても私の後継でなく、家来であっても忠臣でない。」と言葉を残してお亡くなりになった。その後の出来事です。

わたくし弁内侍は、後醍醐天皇の後継である後村上天皇にこのような歌を申しあげました。「これまで、ずっと天皇家にお仕えしてまいりましたが、本日からは、心にしみ込んだ失意と悲しみを胸に、黒色の袈裟(けさ)を着て過ごしたいと思います。」私の言葉をじっとお聞きになられた後村上天皇は、私の心中をお察しになられたのか、この私の申し出を許して下さいました。

自分でも気に入っていた、艶のある黒色の髪をバッサリと切って、その髪を如意輪寺の境内に埋めてから、私は吉野山を後にしました。その後は、竜門の聖尼庵というところで祈りを捧げる毎日を過ごしたのです。本来は、仏様の前で祈りを捧げるのですから、心が穏やかでないといけないのに、、まぶたを閉じれば、すぐにあなたの姿が浮かんできてしまって、ふと無意識のうちに涙が頬を伝います。

それでは、なぜ、私が尼僧になるに至ったのか…

――あれは、まだ先代の後醍醐天皇がご存命のころでした。今でも思い出すと身の毛もよだつ思いがいたしますが、足利尊氏の家来である武将・高師直(こうのもろなお)から言い寄られて、私がさらわれそうになった時があったのです。

女好きな人物だとは聞いていましたが、まさか実力で襲ってくるだなんて。高師直にさらわれそうになったまさにその時、私を救ってくださったのが楠木正行(まさつら)様でした。その手の力強さに、私は確かな安心を感じたものでした。

それから時が流れて、あれは何の時だったでしょう。後村上天皇が、「弁内侍を妻にもらうように」と正行様にご提案なさった時がありました。そのご提案を聞いて心穏やかではいられなかった私とは対象的に、正行様は

「とてもこの世で長く生きていようはずがない私の身でございます。つかの間の結婚など、どうして結べましょうか。」

と結婚をお断りになられました。そして、まもなくして正行様は本当に戦場へと向かわれたのでした。

京都から攻めてくる敵方を、藤井寺、天王寺、京都と撤退させ、連戦連勝を重ねた正行様。

しかし、当然敵もだまってはいません。次こそはと、高師直を筆頭に大軍が押し寄せ、正行様の軍を攻め始めたのです。

高師直の出陣の報告を受け、吉野山では正行様が出陣の準備をすすめられておりました。無事に帰るよう願う後村上天皇と、そして私の思いに背を向けて、正行様は如意輪寺に歌を残して、敵の待つ四條畷へと向かわれたのです。

「生きて帰れまいと、かねてより思っておりました。死出の旅へ向かう私たちの名をここに留めます」

まもなくして、正行様が奮戦むなしくも、高師直に敗れたとの報告が届きました。しかも、師直は正行様を殺した後、吉野山を目指しているとのこと。私はいても立ってもいられず、後村上天皇にお時間をいただき、先の暇乞いの歌を申し上げたのでした。

ねぇ、正行様。

私の祈りは、この仏前の蝋燭(ろうそく)の煙にのって、あなたのもとに届いているのでしょうか。ご自身のことは顧みず、ただただ、皆のことを気に掛けていたあなた。あなたの代わりに、これからは私が。あなたの黄泉での幸せを願い続けたいと思います。

いつまでも、いつまでも―

――そうして生涯、弁内侍は楠木正行の菩提をとむらい続けたのでした。

弁内侍が過ごされた聖尼庵がどこにあったのか、それは、竜門寺とも西蓮寺とも伝わるばかりで、未だにその場所は分かっていません。そもそもを申しますと、この物語は『太平記』にも記されていない物語。さて、この物語はウソかマコトか。マコトなら聖尼庵はどこにあったのでございましょう。

その真実は、はて、どなた様がご存じなのでございましょうね。

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