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四大財閥を凌ぐ林業王「土倉庄三郎」を知っていますか?

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国道169号線は奈良市から和歌山県新宮市に至る道路で、紀伊半島の険しい山間部を通っています。京阪神地域からは、桜の吉野山や大台ケ原などの観光地へのアクセスが便利なため観光客の利用も多い路線です。

その国道169号線を使って吉野町からおよそ20分。長いトンネルを抜けると吉野町のお隣、川上村です。川上村は吉野林業の中心地で日本の林業はここから発展したと言っても過言ではありません。その人の名は「土倉 庄三郎(どぐら しょうざぶろう)」と言います。

1840年生まれですから今から約180年前の江戸時代末期に生まれ、明治・大正の時代を生きました。川上村大滝の大山主の家に生まれ、若い頃から林業の現場で鍛えられました。土倉庄三郎の何がすごいのか。それは、吉野林業を発展させて全国に広めたことです。

現在の林業や過疎化が進む山村の状況からは想像できないかもしれませんが、明治以降の日本経済の発展は林業にありました。土木建築用材や船舶建造、水源涵養や治山など山林の持つ役割は国家経済に大きく関わっていたため、木の持つ価値が、現在と比べ物にならないほど高かったのです。

吉野地域の林業は、室町時代から始まったと言われていますが、現在の「吉野林業」と呼ばれる超密植・多間伐を特徴とする造林法は、土倉庄三郎によって生み出され、明治時代以降に彼によって広められました。もともと良質の吉野の杉や桧ですが、土倉庄三郎の育てた木はその中でも別格だったそうです。

土倉家が所有した吉野の山林は、最盛期には9000ヘクタール(東京ドーム約1925個分)もあり、山から切り出された良質な木材は、吉野川を下って和歌山や大阪へ、そして全国に運搬されました。ここまでだと土倉庄三郎は単なる山林王ですが、彼は生涯川上村に住み続けました。土倉庄三郎のすごさはここからです。1880年(明治3年)に日本政府から水陸海路御用掛に任命されて以降、交通インフラの整備を担当し、吉野川の浚渫や川幅の拡張工事、現在の国道169号線や東熊野街道の整備、吉野町から五條市へと通じる道路整備などに尽力しました。

林業の発展の要は運搬です。彼の尽力によって交通インフラが整備されたことで、林業が吉野地域の経済の発展にも大きく貢献するに至ったのです。まだまだ続きます。吉野と言えば桜の名所吉野山ですが、もしかすると、その「日本一の桜の名所が消滅していたかもしれない」と言われています。江戸末期は明治維新により世相が大きく揺れていたために、吉野山への来訪者が減少し桜の世話をする人も少なくなっていました。

明治時代に入ってすぐ、政府によって神仏分離令が発令され、廃仏毀釈の波が吉野にも及んできました。吉野山は「修験道」と呼ばれる宗教の聖地であり、修験道は神仏習合による日本古来の山岳宗教ですが、その多くの寺院が廃寺になったり打ち壊されたりしました。

さらに、修験道の本尊である蔵王権現のご神木は桜であるため、桜の木を守ることは政府の方針に反することになります。そんな時にやってきた大阪の商人が吉野山の桜の木を全部買い取る話を持ち込みました。困っていた吉野山の人達は、この苦しい状況から逃れるために了承しました。大阪の商人が桜の木を買い取ろうとした理由は薪にするためとか版木にするためだったと言われています。

吉野山の当時のリーダーは、土倉家を訪ねて、桜を切った跡地に植える杉や桧の苗の購入について相談したそうです。杉や桧はお金になりますから。そのことに驚いた土倉庄三郎は、「新しい政府ができ、いずれ日本は世界の国々とつき合うようになり外国人も遊びに来るだろう。その時のためにも吉野山の桜は保存しておかなければならない」とその代金全額を即座に渡して、大阪の商人に返金するよう進言したそうです。

その土倉からの申し出を受け入れた吉野山のリーダーは桜の売却を止めました。土倉庄三郎のおかげで吉野山の桜の木は伐採をまぬがれたのです。彼には吉野山の桜への特別な思いがあり、また、卓越した先見の明の持ち主だったのです。

土倉庄三郎のエピソードはこれに留まりません。彼は、土倉家の財産を三等分して、それぞれ、国、教育、事業に投資するという信念を持っていました。私費を投じて地元に小学校を開校し、子供たちに洋服の制服や文房具を支給しました。
また、新島襄とも親交があり、同志社大学や日本女子大学の設立にも大きく貢献しています。

更には自由民権運動を支援するなど、板垣退助、伊藤博文、大隈重信など多くの政治家が土倉庄三郎に会うために川上村を訪れているのです。土倉庄三郎は1917年(大正10年)77歳で亡くなりましたが、林業は言うに及ばず、政治、教育など日本の成長を支えたその偉業は今なお語り継がれています。

川上村大滝の集落の対岸にある鎧掛岩にはその偉業を称えて「土倉翁造林頌徳記念」と壁に刻まれた巨大な碑があります。土倉庄三郎の見ていた将来の日本はどんなものだったのでしょうか。生家跡にある土倉庄三郎の銅像は遥か先の日本を見つめているようです。

Okita-san

Okita-san

吉野に生まれ、奈良で暮らして早60云年。吉野町上市が賑やかだった時代から、現在までを見守ってきました。70'sロック好き。最近、奈良の酒蔵が作るクラフトジンにハマりました。

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