よしのーと!

吉野山

人を癒し、力をくれる吉野~前編~

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「吉野とは、傷ついた人を癒し、力を与えてまた送り出すことのできる場所ではないでしょうか」――。

この言葉を聞いたとき、思わず涙が出そうになった。足繁く通うようになった吉野で、何度となく目にしてきた情景。神社やお寺で一途に「手を合わせる」人たちのひたむきな横顔が、瞬時にまぶたに浮かんできたからです。

――私たちはなぜ、手を合わせるのでしょう?

自分のため、家族のため、あるいは世の中のために。祈り、願い、償いなのか、それとも感謝からなのか、それぞれの心の中はわからないけれど、神さま、仏さまを仰いで手を合わせる瞬間には、とても真摯で偽りのない懸命さが表れるように思えてなりません。

 

傷ついた人を癒し、明日を生きる力を与えてくれる吉野

吉野を歩けば、実に多くの神社仏閣が集結していることがわかります。古代より山岳信仰の霊地で、南北朝時代には南朝の中心になり、さまざまな局面で歴史の舞台になってきた特別な場所であることを、現代を生きる私たちも肌で感じることができるのです。

神秘の力が満ちあふれる吉野で神仏の御威徳ごいとくをいただき、活力をチャージする。この記事では「人を癒し、力をくれる吉野」をテーマに、前編では「金峯山寺」、後編では「吉野神宮」をご紹介します。強力なパワースポットとして崇められる聖地を、心をこめてお参りしてみましょう。忙しい毎日に取り残された心の中に、温かくやさしい「気づき」がふわりと舞い降りるかもしれません。

 

吉野山のシンボル、修験道の総本山 1300年続けられる祈りの儀式

ドーン、ドーンと響き始める太鼓の音に急かされながら石段を駆け上がると、「わあ、羽を広げた鳳凰みたい……」。夕日を浴びて美しさを際立たせる国宝・蔵王堂の偉大な桧皮葺ひわだぶきに見とれていると、今度は法螺貝ほらがいのふくよかな音色が吉野山にとどろくように聞こえ始めます。この音を合図に、金峯山寺では夕座の勤行ごんぎょうが執り行われるのです。

本堂・蔵王堂に安置されたご本尊の「金剛蔵王権現こんごうざおうごんげん」に向かって、来る日も来る日も絶やすことなく続けられる祈りの時間。早朝と夕方の勤行には、経本を手にした在家信者の方だけでなく、私のように旅の途中で立ち寄った一般参拝者も無料(※)で参列することができます。(※)金剛蔵王権現特別御開帳期間中は有料となります。

この日はちょうど「金剛蔵王権現」の特別ご開帳の期間中。普段は拝観することができないご本尊のお足元を一心に見つめながら、読経の声に意識を集中させます。一語一句をおろそかにすることなく唱えられる祈りの言葉。途中、新型コロナウイルスの終息、感染者の快復、医療従事者の安全といった言葉も聞かれ、日本国民のため、ひいては世界平和のためにたゆまぬ祈祷が捧げられていることを知るのでした。

 

御仏を仰ぎ見て心から懺悔する まっさらになり、また歩き出す力を

祈る私たちを見下ろすように祀られた三体のご本尊。昼間に見た金剛蔵王権現の衝撃のお姿が、強い残像のようにありありと胸によみがえります。

右手には三鈷杵さんこしょを持ち、振り上げた右足は悪魔を蹴飛ばさんばかり、今にも飛び出してきそう。目をひんむいて眉を吊り上げ、髪は炎のごとく逆立って、牙の突き出した口元……これが御仏のお姿だなんて。これ以上ないほどの荒々しさにみなぎるお顔は「忿怒ふんぬの形相」で、私たちを叱ってでもまっすぐに導かんとする仏さまの強い意志の表れなのだといいます。

「単なる怒りではなく『じょ』のお姿です。親が子を思ってきつく叱るかのように、私たちを正し、怒りの中にすべてを許してくださるという慈悲に満ちたお心、それが『恕』なのです」

そう教えてくださったのは、僧侶の田中岳良様。

わあ、そうなのですね……このたび日本最大といわれる秘仏を目にする機会をとても楽しみに来たんです、「心して拝見いたします」と胸を膨らませ、いざ入堂せんという私に、こんな言葉が返ってきたのです。

「拝見ではなく、『参拝する』というお気持ちでお入りください」――と。

「仏像は美術品ではないのです。ここへはみな『お参り』するために来られています。どうぞお参りするという心で手を合わせてみてください。きっと感じるものがあると思いますよ」

ドキリとした。諭されなければ私は、まさに仏像を“鑑賞”し、寺院を“見学”するためにここでの時間を過ごしていたはずだと、ハッとしたのです。

7メートルもの巨大な青い像。珍しい肌の色は貴重な天然鉱石「藍銅鉱」らんどうこうを砕いて抽出された青黒色だという。その迫力と神秘さに魅了され、良いものを見たと満足して帰っていたに違いない……。そう気がつくと、自分の浅はかさが途端に恥ずかしく、目の覚めるような思いがするのでした。

そうして背筋を正し、気持ちを整え直して入室した「発露ほつろの間」。「発露」とは心の中にあるものをすべて吐き出すという意味で、障子で囲われた個室のようなスペースに1人ずつ座して、「ご本尊と対峙し、懺悔さんげする時間をもつ」。手を合わせ、悩みを打ち明け、過ちをかえりみて、心がすっかり解けるまでご本尊と向き合うのです。

「憤慨した形相に肝が冷えたわ」「いや、私は躍動感ある表情に温かみを感じた」という人もいれば、拝みながら涙が止まらなくなった人、すべてを見透かされたようで肩の荷を下ろせる気がしたと感謝する人もいるのだといいます。

私はといえば、これほどまでにストレートな怒りという表情で、すさまじいエネルギーで見下ろされると、自分がとてもちっぽけな存在に思えてきてしまう。でも、それは決して卑屈になってあきらめるのではない、「行け! 迷うな! 心を決めて進め、潔く生き切るべし!」とのお声を浴びるかのようで、大きな仏さまに蹴飛ばされるみたい、𠮟咤激励しったげきれいされんばかりだ……と、不思議と胸のうちが静かに定まるのを感じながら、しばらく手を合わせたまま動けずに座り続けていたのでした。

 

心をこめて手を合わせ、誰かのために祈るひと時を日常に

「金剛蔵王権現が祈り出された時代は、ちょうど現代と同じく、正体のわからぬ疫病が蔓延していました。人が奪いあい、傷つけあい、人が人としてまともに生きられないような時代、世も末でありました。自分のことばかり考えるのはやめよ、共に手をたずさえしっかり生きよ、見守っておるぞという強いお姿は、人びとに道を示して勇気を与えたことでしょう。

みなさんも日に1度、どうぞ今日のように手を合わせる習慣をもってください。手を合わせると気持ちが軽くなり、心に余裕が生まれます。余裕が持てると、他に分け与える思いやりが生まれます」

後で拝聴した説法にも、「手を合わせる」ことの意味、急ぐ足を止めてしばし心を整えること、自分だけの事情にとらわれず人に手を差し伸べることの大切さを知るヒントがありました。

私たちは、ひとりで生きているのではない。自然に恩恵を受けて、自然の一部として「生かされてきた」はずだから。奪ってはならない、独り占めして良いことなどない。煩悩を手放し、執着することをやめれば、実はとても心穏やかに過ごすことができるのかもしれません。

誰かのために、そっと手を合わせてみる。家族が無事でありますように、心配ごとが滞りなく終わりますように。

自分以外の誰かのために小さな祈りを積み重ねること。そんな些細なことが、心の平穏を授けてくれるだなんて。私が求めてきたものはとても身近なところに、自分の中にあったのだなあ……と今日1日を振り返りながら、金峯山寺・蔵王堂に一礼し、また手を合わせてから石段を下りたのでした。

観光がてらに通り過ぎるだけでは決してわからない、吉野という聖地の包容力と底力。霊力の宿る場所へ、目的を持って足を運んで丁寧にお参りし、「思い」をそこに置いていく時間。慌ただしく過ぎていく日常では得られなかったかけがえのない「気づき」を手にすることができるかもしれません。

後編では、まるで天界のような独特のすがすがしさに満ちた「吉野神宮」をご紹介。冒頭の宮司さまのお言葉、「傷ついた人を癒し、力を与えてまた送り出してくれる」――という吉野の力についてお聞きしましょう。

⇒ 【後編につづく】
人を癒し、力をくれる吉野~後編~

 

金峯山寺

住所:奈良県吉野郡吉野町吉野山2498
TEL:0746-32-8371
拝観時間:08:30~16:00
定休日:年中無休
HP:https://www.kinpusen.or.jp

山本 亜希

山本 亜希

1975年、京都市生まれ。京都外国語大学英米語学科卒業後、海外旅行やグルメ取材、インタビュー記事を中心に東京での執筆活動をへて、2011年から京都市在住。ソウルシンガー、英語講師としても活動。

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