伝説の地は意外に近かった
奈良の祭り画家・川瀬忠さんのお話にひかれ、「国栖奏」を見に初めて吉野町・国栖の里を訪ねました。日常生活圏からほんの少し長く電車に乗って、少し車を走らせただけなのに、伝説の地、日本昔話の世界に、一挙にふところ深く入り込みます。
国栖の里は秘境中の秘境で、めったに人が訪れることはできないと思い込んでいました。ところが、近鉄橿原神宮前駅から急行電車に揺られ、田園風景が山々に変わる車窓にみとれているうちに、えっと思うほど早く大和上市駅についていました。駅からは車で吉野川沿いに進み、吉野宮滝遺跡の横を通って国栖の里へは15分ほど。
ここから吉野川は支流の高見川と分かれます。下流は五條を通って紀ノ川となり、和歌山から海へ。ここはまさに分岐ポイント。国栖の里は、奥まった田舎どころか紀伊半島の重要な物流拠点の1つだったはず。
そういえば古い家屋が軒を連ね、街道の名残を残したたたずまいがゆかしい感じです。人も通わぬ山奥だと思っていたのに、やっぱり現地は訪れなければわからないことだらけです。
吉野川の蛇行が生み出す密やかな空間
吉野川の水は透き通った深い緑色をしていて、あたりに清浄な空気を漂わせています。神社に近づくにつれ蛇行する川はひっそりと奥まった空間を作り出し、外界と隔てられた印象を与えます。聖と俗の境界線にあるような地です。
川沿いの道をさらにいくと、行き止まったところで石段が現れます。石段を登っていくと、小さな拝殿が現れました。この拝殿が舞の舞台となるようです。建っているのは断崖に作られた4、50人も立てば溢れそうな狭い平地。本当に限られた人々の中で伝えられてきたまつりなのだということがわかります。
そして、拝殿のさらに奥にも急な石段が続いています。最も奥まった高みに祠があり、これが天武天皇をまつる社殿。秘された場所であることを示しているようです。石段の途中に楽器とともに、お神酒や芹などの神饌が添えられています。特に珍しいのが、「もみ」と呼ばれる生きた赤蛙。
今ではとても貴重な生き物で、この儀式でも毎回は登場しないので、御目にかかれるのはラッキーだとか。奈良では「美味しくない」ことを「もみない」と言いますが、このカエルがとてもおいしいことから来ているそうです。
何から何まで不思議な儀式
透き通った笛の音とともにしずしずと宮司さんが石段を上がってきました。ひそやかな始まりです。拝殿に上り、その場を清めるお祓いをします。桐の紋の入った爽やかな白狩衣をまとい烏帽子をかぶった翁たちが現れました。揃って席につくと儀式が始まります。舞の翁が二人、あとは笛、鼓、謡の翁たちです。
宮司さんの祝詞の奏上のあと、2つの歌がおごそかに詠まれます。高い笛の音とともに3つ目の歌が谷に流れた後、二人の翁が鈴と榊を手に舞を舞います。
「正月」
「エンエイ」
翁の声が高らかに谷に響きます。
シャンシャンシャン、と3回鈴を鳴らして二人そろって榊をかざし優雅に袖を翻します。
「二月」「エンエイ」…
繰り返される笛の音のフレーズとともに、12ヶ月分の舞が奏されます。
「エンエイ」ってなんだろうと思って後で調べてみると「延栄」の字が当てられているようです。確かなことはわからないのでしょうが、ことほぎの言葉としてふさわしい字です。「長く安らかに栄えますように」という思いが込められているのでしょう。
翁が舞い終わると、最後の歌が詠まれます。
「かしのふに よくすをつくり、よくすに醸める大神酒 うまらに きこしもちおせ まろかち」
(樫の木の育つこの地で、樫で横広の臼を作りました。その臼に醸したお神酒はとても美味です。どうぞお召し上がりください。まろかち)
「まろかち」のところで全員が急に手を口に当て、全員が体を上にそらします。「まろかち」とはなんでしょう。
そのままの意味だと麻呂が父、私のお父さん。つまりお父さんとも思える大事な人という意味なのか、元々年長者に先にお酒を飲んでいただく古くからの習慣からきているのか、それとも全く別のことなのか、そして、なぜここでこの「笑いの古風」と言われる不思議な所作が入るのか。
最後に氏子と奉賛者の名前が読み上げられ、同じく「エンエイ」とことほぎの声が挙げられます。「お順楽」というそうです。特別な空間での不思議な言葉、不思議な舞、不思議なしぐさ…不思議世界に迷い込んだようです。
太古からあり続ける国栖の地と人々
「国栖奏」は、毎年変わらず旧暦1月14日に行われます。その原型は、「古事記」と「日本書紀」の両方に出てきます。
古事記には、応神天皇が吉野を訪れた時に国栖(国主)の人たちがお酒を捧げ、刀をほめたたえる歌と樫の木の臼で醸したお酒を勧める歌を歌い、口鼓と演技で天皇をもてなした、という記事が出てきます。応神天皇は、新羅まで攻め入った神功皇后が船の上で出産した子どもで、仁徳天皇のお父さん。1600年も前のことです。
応神天皇が本当にいたかどうかは別にしても、古事記が書かれた時代(712年)にすでに「この歌は国栖の人々が産物を貢ぐ時に今でも歌っている」とありますから、相当古くから伝わったものだということは確かなようです。
『日本書紀』ではもっと詳しく儀礼の様子を伝えています。
国栖の人たちは歌い終わってから、すぐに口を打って上を仰いで笑った。国栖の人たちが献上品を捧げる時に歌ってから上を仰いで笑うのは、昔からのきまりごとである。
国栖の人たちは純朴で、いつも山の木の実を食べている。煮た赤蛙はとても美味しく「もみ」と呼ばれていた。
その土地は、都の東南、山を隔てた吉野の川上にある。峰険しく谷深く狭隘な山道だから、都からそう遠くはないといっても滅多に訪れることはなかった。
しかしこれ以降たびたび産物を都に届けるようになった。その産物は栗と菌と年魚の類である。
これを読むと、山のご馳走は都の人々にとっては驚きで、その珍しさが喜ばれため儀式に取り入れたのではないかと想像がふくらみます。それにしてもあの独特の笑いのしぐさはなんでしょう。
古事記には「口鼓」とありますから、鼓など持たなかった国栖の人々は口を叩いて今で言うヴォイスパーカッションを演じたのではないか、宮中の人たちがそれを上品に笑った様子が里人たちには印象的で、それらを合体して取り入れたのではないか、などとさらに妄想がかき立てられます。
大和朝廷を作りあげた一族と古い山里の民族が、酒と歌と踊りで楽しく過ごした一夜。
それを再現劇として残したのが国栖奏であり、はるか昔の異文化交流だと言えるのではないかと考えると、興味が尽きません。
忘れてはならない記憶を留めるまつり
国栖の人たちが古事記に最初に登場するのは、神武天皇の東征の時。つまり、縄文の昔からこの地に住んでいた先住民族なのです。小さな山間部族の一つでありながら、どうして天皇家とこれほどまでに強いつながりができたのでしょうか。
さらに疑問が湧きます。
なんといっても国栖と天皇家の繋がりを一番強固にし、国栖奏が今に伝わるきっかけになったのは、壬申の乱でしょう。これも1300年以上昔のことです。吉野町国栖奏保存会作製の『国栖と国栖奏』によると、身の危険を感じた大海人皇子(天武天皇)が吉野に逃れて以来、何度も窮地を救い、壬申の乱を勝利に導いたのが国栖の人であることが『吉野旧事記』『国栖由来記』に記されているといいます。
その際、天皇をかくまったのが浄見原神社のあるこの地で、国の産物でもてなし、国栖の舞でお慰めした、とあります。だから、こんなに隠された場所に神社があるわけなんですね。
国栖の舞はその後、天皇より「翁の舞」と名付けられ、桐竹鳳凰紋の装束と楽器を与えられ、宮中で参内して舞うという栄誉を得ます。戦乱で途絶えた後、国栖の里に伝えられ、今でも大事な儀式の際には宮中で舞われます。