スクリーンの中の風景に惹かれ、その舞台となった場所を歩くことがあります。どうしてこの場所が映画の舞台として選ばれたのか、実際の風景の中に身を置くことでその秘密が見えてくるように思います。春の訪れ間近のある日、河瀬直美監督作品『Vision』(2018年)の舞台となった吉野の森を歩く機会に恵まれました。
吉野の森へ
針葉樹の青い風に吹かれながら、木漏れ陽の落ちる杣道を歩きます。ウグイスの初鳴きでしょうか、梢の高みから定まらない音程で歌いかけてきます。傍らの清流に伴なわれ、森の中を歩き続けます。
山守の人々によって日々管理される吉野の山は「美林」の名にふさわしく威厳を湛え、眺めるほどに感じるものがあります。下草刈り・枝打ち・間伐が徹底され、美しい景観が保たれています。森林は本来的に山崩れや洪水を防止し、水を蓄え濾過して供給するほか、地球温暖化防止や騒音緩和などに力を発揮します。そして、この町の特産物「割り箸」の原材料でもあります。吉野の山々に育つ杉の木は年輪幅が狭いのが特徴で、強度に優れ、上質。建築材として用いられるほか、端材を加工して割り箸を作っています。
森の中を歩くうち、心がリラックスしてきました。樹木から発せられるフィトンチッドによる健康効果でしょう、清流の流れも鳥の歌もいっそう澄んで聞こえます。この山行で目指したのは、森林復活のシンボルとして登場する「モロンジョの木」でした。木には「見に行く」ではなく、「会いに行く」が正解。人間よりも遥かに長い時間を生きる木は多くを知る賢者です。その叡智に触れるためには、こちらから出向いて「会いに行く」と言った方が正しいように思います。
ふるさと吉野の自然風景を巧みに用いて独自の世界を創造する河瀬監督の手腕は作品『Vision』でも大いに発揮され、とりわけ秀逸な作品に仕上がりました。
人は生まれ落ちた土地に育てられ、授けられた命を生きる存在であり、命の母胎である地球の健康が懸念される今、人が奢りを捨てた時、自然の治癒力によって再生されることを学んだ気がします。
場所の記憶
映画の舞台になったのは、熊野・吉野への参拝客でにぎわったかつての集落跡。現地はすでに地面が歪み、所々で崩れ落ち、随所に残る平地が辛うじて家の基礎を想像させる程度。
梁や柱は風雨に朽ち、あるいは土に還り、建物基礎を成す石組みが残されたまま苔に覆われています。草木が繁茂し、地衣類が這って、ここに人の暮らしがあったとはとても想像できません。凄絶で、人を寄せ付けない峻厳な光景です。
遺物たちが語る場所の記憶を胸に、落葉を踏んで歩きます。目指す「モロンジョの木」は失われた寺院の跡に立っていました。この木はヒノキ科の針葉樹で、学術名をネズミサシ(「鼠刺」)といいます。葉の先端が尖っていて、鼠をも刺してしまうところからこの名があり、別名モロノキ。
変じて、「モロンジョ」になったのでしょう。樹齢約250年。代々戸主が丹精して育て、今では周囲を払うような風格を備えています。木々が一斉に風に揺れ、光芒が差し込んで、とても神秘的です。
高みにある墓所で花を手向けている女性の姿がありました。65年前にこの山を下りたかつての住人で、先祖供養のため今も定期的に通っているのだとか。
「3軒ほどがここで暮らしていました。当時私は小学1年生で、山の下まで通学していました。子どもの足だから、ずいぶん時間がかかってね。山を下りた人たちが毎年桜の季節に集って、花見の会を開いています。今年も開花が近づきました。」
懐かしさに浸りながら、花のような笑顔で話してくれました。集落跡の惨状はなかなか筆舌に尽くしがたいものがあります。平地になった屋敷跡には木々が育ち、人の手の入らなくなった田畑は草に覆われて、そのまま森へ遷移が進んでいます。
ただ、庚申塚だけは色褪せず、かつての住人たちの厚い信仰心を伝えています。「文政四年」の刻印があり、江戸時代にはすでに集落があったことがわかります。17世紀後半に生きた芭蕉もここを通って、一句残しています。
作品中、「モロンジョの木」の洞に群集のにぎわいを聞くシーンがありますが、おそらく、かつての住人たちのざわめきでしょう。「モロンジョの木」がいつも彼らの暮らしの傍にあったことを意味するものではないでしょうか。
氏神を祀っていた場所に『むらあと』の石碑が残っていました。
伺えば、その氏神こそ河瀬監督がインスピレーションを得た火の神で、住人が山を下りるのにあわせて山麓の集落に遷したとのこと。監督は森を焼き尽くす炎を千年に一度起こる森の再生と復活のシンボルとして登場させています。悪を祓い物事を無の状態にリセットする働きを火が担うことは多くの人が認めるところではないでしょうか。
ただ、この場所にどうして火の神が祀られたかについては未解決となってしまいました。
明るい静寂
木々の間から差し込む光芒がとりわけ深い印象を残します。雲の切れ間から差し込む光の帯のことを気象用語で「薄明光線」(「天使の梯子」とも)と言いますが、ちょうどこれに似た神々しい風景が目の前に広がります。傍らの清流に誘われ、鳥が歌います。森は明るい静寂に包まれています。
以前、河瀬直美監督の作品世界「vision」~映画解説編~の記事の最後に「焼き尽くされた森の中から立ち昇るきらきらした胞子状のものの正体について、あらためて考えてみたい」と書きました。この「胞子状のもの」とは、明るい静寂の中をやってくる、かぎりない人類愛と平和に満ちた過去世界に対するノスタルジアなのかもしれません。
山で出会った女性から、人が去った後の森に今も忘れず花を結ぶ桜があることを聞きました。春の一日、かつての住人たちが桜の下に集って旧交を温めるのだと言います。宴が去れば、老桜はまた独り森の中でひそかに花を散らせることでしょう。眺める人のいない花のかなしみが心の中に降り積もります。
※本記事は特別に許可を得て山へ入り、執筆しています。山は個人所有のため、ご訪問の際には吉野ツアーにご参加頂くようお願い致します。