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河瀬直美監督の作品世界「朱花の月」~現地散策編~

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物語の序盤、住民たちが将来過疎の村になることを心配して、主人公・拓未に結婚話を持ちかけるシーンがあります。その舞台となったのが、明日香村栢森かやのもり地区にある農家レストラン「さらら」でした。監督がひと目見て気に入った建物だったそうです。

映画公開から約10年。人間にとって不変の問題である「愛」を描く本作品の舞台の一つ「奥明日香」の魅力について、オーナーの坂本博子さんにお話を伺いました。

 

木々や川、自然と共生してきた奥明日香

持統天皇の幼名「鸕野讃良皇女」(うののさららのひめみこ)にちなんで名付けたというこの店は2008年創業、栢森集落の入口に位置します。手づくりの味噌を使い、自家栽培の米と旬の野菜で作る郷土色たっぷりの料理が自慢で、滋味あふれる深い味わいが多くのファンの心を掴んで離しません。

坂本さんは郷土の歴史についても詳しい方。お話によると、その昔ここ栢森は明日香と吉野を結ぶ芋峠越えの要衝であり、峠を越えて往来する人々で賑わっていたそうです。他にも、栢森のひとつ奥の「入谷にゅうだに」集落が水銀を意味する「丹生にう」と関連があることや、目の前を流れる小さな川が、他の小川と合流して名前を変え、最後に大和川として大阪湾に注ぐこと、そして、近年地域では人口が減少して空き家が増えはじめていることを教えてくださいました。

ふと気がつけば、うぐいすやホトトギス、カッコウといった鳥たちの鳴き声が私たちを取り巻いていました。静けさに沁み入るような美しい声です。そして、月の夜は森の奥でフクロウが鳴くのだ、と話す坂本さん。こうした自然に恵まれた「さらら」を繰り返し訪れるファンが多くいることを知って、私は嬉しくなりました。遠く都会からのお客様は「明日香は緑の色が違う」と口をそろえるのだそうです。

お話の中で坂本さんが繰り返し強調されたのが水の大切さ。飛鳥川は竜在峠と高取山に水源をもち、田を潤しながら明日香村方面へ流れています。人々は五穀豊穣を約束してくれる水の恵みに感謝して各所に水神を祀り、水枯れの年には雨を乞う祈りを捧げてきました。たとえば、稲渕の宇須多伎比売命(うすたきひめのみこと)神社と栢森の加夜奈留美命(かやなるみのみこと)神社には水神が祀られ、栢森の山手にある女渕めぶちでは古代、皇極天皇が雨乞いを斎行したことが伝わっています。

さらに坂本さんは暮らしの文化にふれて、家の前を流れる細流に石段が伸び、川を洗い場として使っていた形跡が残っていること、田植えや稲刈りの季節には村人が総出して田に入り、収穫の喜びを身体で感じたことを懐かしそうに話してくださいました。

村人たちが共に働き、互いに助け合って営んでいた暮らしがここには確かにあったのです。「日本の棚田百選」に選ばれている稲渕地区の棚田が、そうした労働の喜びをもの言わず伝えています。

 

独特の役づくりの手法

すべて言葉は、イントネーションも含めて、その土地が生み出したものです。暮らしの中の必要とされて生まれたものであり、文化そのものと言えるでしょう。

河瀬監督は郷土を大切にされます。ことに出身地である奈良に対する思いは特別で、言葉に関しても、味がない「共通語」には興味を示されないように私は感じます。ロケ地に入ってから急ごしらえで集めるエキストラに対しても、言葉の指導はありません。「飾らず普段のまま」で良いのだそうです。

他方、演じ手である俳優の育成には心を砕かれます。彼らを「その土地の住人」に仕立てるため、ロケ地となる地域で長い時間を「演じる役柄として」過ごしてもらうことが河瀬監督の手法。地域で実際に過ごして得た「体験」と、心の内側に染み付いた役のキャラクターが俳優のセリフをいっそう際立てさせるらしいのです。

作品の中の人物はみな「顔」を持ち、その土地に生きる住人として暮らします。このような徹底した役づくりは河瀬監督独自のもので、ユニーク。本作では、主演のこみずとうたさんと大島葉子さんにそれぞれ木工作家の拓未、染色家の加夜子として、クランクインまでの数ヶ月間、地域に溶け込みながら生活をしていただいたそうです。

 

「奥明日香」の実際の魅力と理想の姿を描く河瀬監督

 「さらら」の庭を吹く風はやわらかく、徒歩で訪れたからだの火照りを冷ましてくれます。空の片隅から透きとおるような声でホトトギスが歌います。

『川の瀬、里山の景色、なにより風』と奥明日香を絶賛する河瀬監督の言葉を紹介しつつ、「監督は風が木々をゆっくり掻き混ぜるように揺らす景色がお好きでした」と坂本さん。私は『萌の朱雀』と『殯の森』にも同じような風のシーンがあったことを思い出しながら、枝葉のゆらぎを見つめていました。

映画の中では十数本のこいのぼりが屋根の上を吹きわたっています。しかし坂本さんいわく「この集落にあれだけの数の男の子がいるわけではありません。事実は逆で、たくさんの子どもたちが居てほしいからこその描写なのです」。そう。作中で青空を泳いでいたこいのぼりは、奥明日香を子どもたちのにぎやかな声で満たしたい、という祈りの形だったのです。

 「古都保存法」「奈良県風致地区条例」「明日香村景観条例」に守られた集落の中を歩くうち、私の心は澄みわたり、懐かしい気持ちになりました。重厚な日本家屋の屋根の重なり、加夜奈留美命神社あたりの水路、さらに上った高台からの眺めが圧巻です。

映画に取組み続けながら、河瀬監督はどこに向かっているのか―。澄み切った眼差しはどこに向けられているのか―。愛して止まない郷土奈良を担う若い人たちに何を期待するのか―。1000年以上昔から続く、奥明日香の人々の水に対する感謝と畏敬の姿勢に一つのヒントがあるように思いました。

風信子(ふうしんし)

風信子(ふうしんし)

古代、中世、近世、近代と時空間をトリップできるのが奈良の魅力。とりわけ吉野は、多くの貴人たちが住まいして文雅の花を咲せたところです。ゆかしき香を聞きながら自然をめぐる旅人であり続けたいと思います。

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