その昔。山深く海のない吉野で暮らす人々にとって、熊野から行商人が運んでくる鯖はたいへん貴重なものでした。腐ってしまわぬよう腹に塩を沢山つめられた鯖は、そのまま食べるにはあまりにも塩辛い。そこで考えだされたのが、ご飯に薄く切った鯖をのせ、柿の葉で包んで木箱にきっちりと詰めた後、蓋をして重しをかけ、発酵させて食べる方法でした。
「柿の葉ずし」とよばれるこの寿司は、奈良県南部では夏祭りのごちそうとして、どの家でも作られ、発酵が進むにつれて変わる味の変化を楽しみながら、時には10日ほどかけて大切に食べられたのだといいます。
吉野の「おふくろの味」を全国へ
そんな「おふくろの味」を最初に商品化し、全国へ売り出すきっかけを作った人物。それは、吉野に本店を構える「総本家平宗」の8代目平井寿蔵さんです。
今では、奈良定番の土産物としてすっかり定着した「柿の葉ずし」ですが、地方で食べられていた郷土料理が全国に浸透していくまでには、寿蔵さん、そして後に平井家へ婿養子として迎えられた直之さんお二人の並々ならぬ苦労がありました。
もともと平井家は、京都仙洞御所へ鮎ずしを順番に献上していた吉野七郷の家のひとつでした。文久元年(1861年)には、平井家のご先祖・宗助が「平宗」の屋号をかかげ上市村で、すし・川魚や乾物を取り扱う商いを始めます。
トラックのなかった時代、輸送手段に使われたのは舟。山で伐られた吉野杉は筏に組まれ、吉野川の流れを利用して川下へと運ばれていました。中継地であった上市は、木材を買い付けに訪れる商人たちで賑わう市場町。また伊勢街道と呼ばれ、山上(さんじょう)詣、高野詣、伊勢詣に訪れる人たちが訪れる街道街でもありました。
そんな人々を相手に、明治半ばになると料理旅館を営むようになった平宗。吉野の地で大正、昭和の激動の時代をくぐりぬけ、戦後、昭和天皇が奈良大和路を御巡幸された際には平宗の鮎ずしが吉野名物として献上されました。その鮎ずしは「献上鮎ずし」と名付けられ、今も平宗が誇る看板料理のひとつとなっています。日本を代表する俳人、水原秋櫻子もこの店を訪れ、「高き名の寿司あり鮎の吉野川」の句を詠みました。
そんな歴史ある平宗の8代目が、平井寿蔵さん。身体が丈夫でなかった寿蔵さんは、色々なアイデアで戦後の「平宗」を支えました。
主流であった鮎ずしに加え、旅館の膳として出していた柿の葉ずしを商品化し、大阪と吉野をつなぐ近鉄特急の車内で土産物として売り込みをはじめたのも寿蔵さんでした。商品化にあたっては、一般的だった鯖に加えて鮭を使い、2種類の柿のずしを作りました。
「鯖だけの1種類ではあまりに好き嫌いが激しいやろう、いうことでね。まぁ、実は、義父も鯖が苦手やったんですよ (笑)」と教えてくれたのは、寿蔵さんの後を継いだ9代目の直之さん。
直之さんは、寿蔵さんの娘婿として平井家に入り、ゼロから寿司作りを学んだ苦労人です。元々は電気製品の商社に勤めていた直之さんは、奈良県の南葛城(現在の御所市)にある薬の里・今住の出身。
売薬をする父親の背中を見て育った直之さんの中には、いつか自分も商いを…との思いが自然に生まれていました。全く業種の違う世界に飛び込んだ直之さんを待っていたのは、朝から晩までの立ち仕事でした。
米の洗い方、炊き方、酢の合わせ方、鮎の開き方に鯖の切り方…昼食も立ったまま食べ、寿司作りの修業が終われば、別館の料理旅館の板前さんの元で下働きをしました。
違う業種からやってきた若い直之さんを、現場の板前さんが受け入れ、お互いに分かりあえるようになるには、大変な苦労もあったそうです。柿の葉ずしに使う「柿の葉」が不足した時に、近辺の民家を回って、頭を下げて分けてもらいに行くのも直之さんの仕事でした。
奈良の名物になった柿の葉ずし
努力が実を結び、少しずつ認知度があがっていた柿の葉ずしが、広く知られるきっかけになったのは、昭和45年の大阪万博でした。夏場ということもあり、お弁当の手配に頭を悩ませていた旅行会社。寿蔵さんと直之さんの営業努力の甲斐あって、傷みにくく手軽で食べやすい柿の葉ずしは、万博を訪れる人々のお弁当として大変重宝されたのです。
大阪万博をきっかけに全国区の知名度を得た「柿の葉ずし」は、奈良県の郷土食としてテレビで紹介されることも増えていきました。しかし、店舗が拡大して柿の葉ずしの人気が出だすと、今度は生産が追い付かず、閉めたシャッターの向こう側で「せっかく来たのに」とがっかりする人の声が聞こえる時期が続きました。
お客さまに喜んで頂くことこそが何より大切だと信じる直之さんにとって、その声はとても辛いものでした。お客さまを失望させてしまうことだけはしたくない。寿蔵さん亡き後、9代目を継いだ直之さんは、その一心から自社工場を建て多くの需要に応えられるような環境を整えていきました。
直之さんは「皆んなのために、より良い商品を、豊かな愛情で」を経営の理念に掲げています。皆んなとは、まず第一にお客さまのこと。そして、一緒に働く従業員のことです。
「どんな仕事でもそうでしょうけどね、人が肝心、人が宝、人が力なんですよ」という直之さん。「どんなに間違ったとしても、ウチに入社してくれて、ご縁があった限りは、私は人は宝だと思っています。私がそのスタンスでないと、本人も気付かないし、改善もない。歩み寄る心は芽生えてこないでしょう」。店舗が増え、会社が大きくなった今でも、それは変わることない大切なポイントなのだといいます。
吉野上市からはじまった平宗は、今や奈良を代表する柿の葉ずしの老舗として、奈良県内外に多くの店舗を構えるようになりました。現在の平宗代表は、直之さんの息子、孝典さん。若い頃から日本料理で磨いた腕を生かし、柿の葉ずしの真髄を残しながら、さらに工夫を凝らした今の世に合う柿の葉ずしを多く作られています。
今では奈良県内に柿の葉ずしを販売する事業者や個人店も増え、それぞれの味を食べ比べる楽しみ方もできるようになりました。そして、わざわざ店に行かずとも指先ひとつで「お取り寄せ」ができる便利な時代にもなりました。
食は世相を映す鏡です。
簡単に美味しいものが手に入る便利さ、それもまた先人の知恵の結晶でありそれを享受できる私たちは幸せです。しかし便利さと引き換えに、食べ物の背景が見えにくくなった今だからこそ、その歴史を知り、ゆかりの場所で食べることには、なおのこと大きな価値が生まれるように思います。
平宗の本店は吉野川の流れのすぐそばにあります。かつて材木の筏が行き交った吉野川は今、川遊びに興じる人たちで賑っています。
時代はめぐり、景色は変わり、人の暮らしも変わりましたが、創業以来160年、平宗本店はこの土地と共にあり、この土地に住む人々の暮らしの中から生まれた食べ物を作り続けてきました。寿司を包むのに、西吉野地方に古来から自生する希少な葉が使われているのも、平宗吉野本店ならではです。
「郷土料理というのは、その地域に根差した環境と歴史から生まれてくるんです。ですから、吉野で育まれて定着した郷土料理の歴史を感じてもらうには、ここで食べる鮎ずしや柿の葉ずしが恰好の品物やと思います」と語る直之さんの言葉には、長い伝統を守り抜き、奈良県内外に広めてきた店の当主としての誇りがあふれていました。
柿の葉が包んでいるのは、この土地に生きた人たちの歴史。小さなお寿司の中に秘められた大きな物語は、この土地がある限り、この先もずっと、時代の流れと共に続いていくに違いありません。
※ 総本家平宗 吉野本店の柿の葉ずしはこちらから購入できます