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吉野山の古民家で心身に沁みわたる蕎麦を~矢的庵~(前編)

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名水が育む絶品蕎麦と採れたて野菜の天ぷらに舌鼓

「うまい蕎麦を出す店がありましてね」と地元の人に教えていただいて訪れたのが、この「矢的庵やまとあん」です。

となりのテーブルでは、ご常連とおぼしき先客の男性が“ひとり蕎麦”を楽しんでおられるところ。今しがた水から上がったばかりとわかるほど潤いをまとった「ざる蕎麦」と、揚げたての「季節の天ぷら」。ツーッと聞こえてくる蕎麦をすすり上げる音に、私までこっそり、にんまりしてしまいます。

「ざると、天ぷら。このふたつは、まさにぼくが食べてほしいて思てるうちの看板ですわ。季節によって限定の蕎麦を用意してますし、そっちのほうが人気でよう出ますけど、知ってる方はざると天ぷらですね」

そ、そうか、まさしく“季節限定”の言葉につられて、夏の一杯を頼んでしまった後だったわ……。少しばかり残念に思ったものの、この「梅八そば」は注文して大正解でした。冷たいかけ蕎麦の上にこんもり盛られたシャキシャキの野菜と薬味、まさしく“よい塩梅”な酸っぱさが絶妙で、こんな食感にも味にもメリハリの効いた創作蕎麦、他では食べたことがない。ヘルシーだし、これぞ暑い時期だけのお楽しみといえそうです。

季節限定の「梅八そば」

「梅干しは自家製で、無農薬で育てたんを使うてます。梅八っていうだけあって野菜は大根、にんじん、大葉、みょうが、ねぎ、みつ葉、麻の実、蕎麦スプラウトの8種類。できるだけ地元産のもんを……っていうか、薬味なんかはうちの母親が畑で育ててますねん。今朝採ってきた採れたてですわ」

気さくな口調で教えてくれたのは、店主の大矢貴司さん。梅八の次は、蕎麦の実の中心部だけを使ったまっ白な「更科二味蕎麦」、「柑橘かんきつの香るすだち蕎麦」、11月になると新蕎麦が、冬にはジビエ、初夏には新茶を練りこんだうぐいす色に輝く茶そばが……そんな話を聞いていると、桜の季節だけじゃなく吉野山を訪れる楽しみが、ここ矢的庵にあると思えてきます。

季節の天ぷら

特に、観桜期の過ぎたころの吉野山は山菜がものすごく豊富。辺りを散歩しているだけで山盛りの収穫ができるそうで、それが「季節の天ぷら」として店にお目見えするのです。「うちの主人、姿が見えん時はたいてい山菜採りに行ってるんです」と微笑む奥様。お話を伺っているだけで、山の暮らしを満喫する大矢さん一家の日常が目に浮かぶようです。

 

吉野山で蕎麦屋を開こうと信州・戸隠の名店で武者修行

矢的庵店主の大矢貴司さんは、吉野町吉野山生まれの吉野山育ち。ご実家は「ここより、もうちょっと山の上のほう。今でも両親と、うちの家族とみんなして一緒に暮らしてますねん」。それでも18歳から2年間は大阪で働き、20代の5年半は蕎麦修行のため信州で過ごしたといいます。

「大阪に出て初めて気づいたんですわ、吉野の水がええことに。20歳でいっぺん仕事やめて吉野に戻ってきて、これから何して生きていこかて考えたときに、『水がええのやから、吉野で商売するなら蕎麦や!』となって。それで、日本中食べ歩いてみよて、蕎麦の旅に出たんですわ」

大矢さんのお父様はいわゆる“普通のサラリーマン”。家業でもなく、蕎麦の良し悪しも知らないけれど、この吉野山で蕎麦屋を開こうと思い立ったのはほとんど思い付きでした。

当時無職だった大矢さんは、知り合いから譲ってもらった車に寝袋を積みこんで、理想の蕎麦を求めて放浪の旅に出発。蕎麦の大産地・北海道まで各地の味を食べ比べて歩いたのだといいます。

「そりゃあ楽しかったです。自分の好きなことをひたすら追求するんですよ、ええ経験でしたわ」とけらけら笑う大矢さん。あふれんばかりの行動力と瞬発力を持ち、若く、背負うものもない身の上だったからこそなせた業。旅の末にたどり着いた「ここぞ!」という運命の店は、信州にあったのでした。

蕎麦の産地として名高い長野県の戸隠とがくし地方。そこで出会った名店「仁王門屋」の味に惚れ込んだ大矢さんは、「修行させてほしい!」と店主に頼むべく店を訪れました。しかし最初は留守、次は店主夫人から「ごめんなさいね、うちの人あんな感じだから」となぐさめられ、3度目にようやく「『皿洗いからやぞ、給料も出んけど、それでもやるんなら』と言うてもらいましてん」。

その日から大矢さんは「蕎麦づくりのこと・商売のいろはを、もう十分に学べた」「自分を受け入れてくれた師匠にお礼奉公ができた」と感じるまで5年半の間、誠心誠意働いたといいます。

「ぼくを受け入れてくれたとき、師匠はちょうど今の自分と同じくらいの年齢でした。こんな見ず知らずのヤツを……。なんてふところが深いんやろうかと思います。ぼくにはとてもできません、感謝してもしきれないんです」

仁王そば

そんな大矢さんの師匠への敬意は、1年を通して食べられる矢的庵の定番「仁王そば」を味わえば伺い知ることができるように感じます。みずみずしいお蕎麦の上に、花が開くかのようにふんわりと盛られたお餅の天ぷら、かじればじゅわっとお出汁が染み出して……食べる人を笑顔にしてくれるこの一杯こそ、修行した「仁王門屋」の看板メニューを受け継いだものです。

自慢のざる蕎麦も、もちろん戸隠風の“ぼっち盛り”。ひと口サイズよりちょっと多めにまとめられた蕎麦の束が5つ、戸隠で作られた竹細工のざるに寝かされて出てきます。しかも、ほとんど水切りすることなく提供されるから、水のきれいな吉野でこそ極立つ蕎麦の味。ところが意外にも、矢的庵の蕎麦は「戸隠産ではない」というのです。

戸隠という小さな集落には30軒ほどの店があり、それはどこもかしこも蕎麦屋ばかり。戸隠産の蕎麦は地産地消され、地元以外に持ち出すほどの量はないのです。そこで修行時代に探し求めて納得できたのが「八ヶ岳産の蕎麦」でした。

「八ヶ岳は標高1000メートル。昼と夜の寒暖の差があって、これが蕎麦の甘みを生むんです。霧下きりした蕎麦というて、霧の下で育つ蕎麦は甘いし、うまい。色、粒の大きさがいいし、実が締まってる。それを情熱を持って挽いてくれる人がいてますしね」

信頼できる生産者から引き継いだ蕎麦粉を吉野の水でこね上げ、一本一本香り高くコシのある「矢的庵の蕎麦」に仕上げていく。普段の営業は夕方までですが、夜の「蕎麦会席」(3日前までの予約が必要)では、大矢さんが知り尽くす蕎麦の魅力が余すことなく披露されるというので、それならますます、次回の吉野詣に組み込まなくては……と思うのでした。

さあ後編では、趣のある「吉野建て」の店構えと、その古民家を生かした矢的庵の魅力をさらにご紹介します。

⇒ 【後編につづく】
吉野山の古民家で心身に沁みわたる蕎麦を~矢的庵~(後編)

 

手打ちそば 矢的庵

住所:奈良県吉野郡吉野町吉野山2296
TEL:090-2478-5834
営業時間:11:00~17:00(時期により変更あり)※蕎麦はなくなり次第終了の場合あり
定休日:不定休
HP:http://www.yamatoan.com/index.html

山本 亜希

山本 亜希

1975年、京都市生まれ。京都外国語大学英米語学科卒業後、海外旅行やグルメ取材、インタビュー記事を中心に東京での執筆活動をへて、2011年から京都市在住。ソウルシンガー、英語講師としても活動。

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